日本史研究のための史料と資料の部屋(室町時代)

永享以来御番帳

群書類従『永享以来御番帳』は、載せられている人名の仮名・官途・受領名をみると、複数の史料を基に作成されたことがわかる。
そのうち、番衆部分については、仮名・官途・受領名からおおよそ宝徳年間の名簿だと思われるので、
当サイトではこの部分を『宝徳番帳』と名付け、別に記す。番衆以外については以下に記す。

永享比ヨリ至文正三職

史料記載名実名備考
管領左兵衛佐義淳斯波義淳斯波武衛家。永享5年12月没
畠山左衛門督入道道端畠山満家永享5年9月没
細川右京大夫持之細川持之細川京兆家。嘉吉2年8月没

御相伴衆

史料記載名実名備考
山名右衛門督入道常熙山名時熙山名但馬守護家。永享7年7月没
一色修理大夫義貫一色義貫永享12年5月没
畠山修理大夫入道道祐畠山満慶畠山能登守護家。永享4年6月没
赤松左京大夫入道性具赤松満祐嘉吉元年9月没
(本来は外様衆か)管領息 斯波治部大輔義豊斯波義豊斯波義淳子。永享4年6月没
(本来は外様衆か)畠山尾張守持国畠山持国畠山満家子。享徳4年3月没
(本来は外様衆か)畠山左馬助持永畠山持永畠山満家子。嘉吉元年閏9月没
(本来は外様衆か)畠山弥三郎持富畠山持富畠山満家子。宝徳4年没
(本来は外様衆か)畠山阿波守義忠畠山義忠畠山満慶子。永享6年12月頃、任修理大夫
(本来は外様衆)土岐美濃守持益土岐持益土岐美濃守護家(西池田家)
(本来は外様衆)六角大膳大夫満綱六角満綱佐々木六角氏。文安2年1月没
京極治部少輔持光京極持光佐々木京極氏。永享11年1月没
(本来は外様衆)山名修理入道常勝山名教清山名石見守護家
(本来は外様衆)細川阿波入道常秀細川基之細川和泉半国守護家
(本来は外様衆)山名弾正少弼持豊山名持豊山名時熙子
(本来は外様衆)細川刑部少輔持有細川持有細川和泉半国守護家。永享10年9月没
(本来は外様衆か御供衆)細川淡路守満俊細川満俊細川淡路守護家。文安3年9月没
(本来は外様衆)山名上総介熙高山名熙高因幡守護
(本来は外様衆)富樫介持春富樫持春加賀守護。永享5年閏7月没
(本来は外様衆)武田伊豆九郎信栄武田信栄若狭守護。永享12年7月没
佐々木加賀入道有統 ※道統の誤記京極高数京極加賀守家。嘉吉元年6月没(嘉吉の変)
(本来は外様衆)佐々木黒田備前守高光黒田高光(高元)佐々木黒田氏
(本来は外様衆)佐々木鞍智駿河守高信鞍智高信佐々木鞍智氏
(本来は外様衆)佐々木佐渡入道
(本来は外様衆)上杉中務大輔 ※少輔の誤記か上杉教房か上杉教房は長禄3年10月没

御供衆

二木謙一氏が『中世武家儀礼格式の研究』(吉川弘文館、1985年)で指摘しているように架空の名簿であろう。
『花営三代記』を見ると、ここに載せられている人名は、実際は御方衆である。
史料記載名実名備考
一番 細川淡路入道全了細川淡路左京亮家か。花営三代記に足利義量の近習として細川左京亮が見える。
二番 桃井治部少輔入道常欽
三番 畠山播磨入道祐順畠山満基畠山播磨守家
四番 畠山右馬頭持純畠山持純畠山右馬頭家
大舘上総介入道祐善大舘満信
畠山三河入道常満畠山持貞
大舘駿河入道常安大舘満冬か
大舘七郎
大舘刑部少輔持房 ※大輔の誤記大舘持房大舘満信子
小笠原備前守持長小笠原持長京都小笠原備中守家
中條判官満平中条満平永享4年10月、失脚遁世
三上近江入道周通
三上美濃入道年世
伊勢七郎貞親伊勢貞親京都伊勢氏政所執事家
伊勢因幡入道伊勢貞長京都伊勢氏因幡守家。永享6年4月7日没
伊勢下総守貞房伊勢貞房京都伊勢氏下総守家。永享8年4月、失脚遁世
伊勢上総守貞安 ※上野介の誤記か伊勢貞安京都伊勢氏上野介家
伊勢左衛門尉貞弥伊勢貞弥(貞平)京都伊勢氏備後守家

御供衆二ヶ番被分也

載せられている官途名・受領名から、永享3年の人名だと思われるが、御相伴衆であった細川持常が載せられ、実際に御供衆であったと思われる持常の弟の教祐が無いことから、こちらも二木謙一氏が記すように架空の名簿であろう。
ただし、斯波持有・斯波持種・細川持常・一色持信・畠山持幸・山名持熙以外は実際に御供衆であった可能性が高い。
史料記載名実名備考
一番衆十一人左衛門佐持定 ※持有の誤記斯波持有斯波義教子。永享12年5月没。※実際は国持外様衆か
民部少輔持種斯波持種大野斯波氏。※実際は国持外様衆か
細川讃岐守持常細川持常細川阿波守護家。 ※実際は御相伴衆
細川淡路中務少輔持親細川持親細川淡路守護家
細川右馬頭持賢 ※右馬助の誤記細川持賢細川典厩家。文安6年4月15日、任右馬頭
山名中務大輔熙貴山名熙貴石見守護。嘉吉元年6月没(嘉吉の変)
伊勢守貞経伊勢貞経京都伊勢氏政所執事家。永享3年8月30日失脚
富樫次郎教宗 ※教家の誤記富樫教家加賀守護。嘉吉元年6月出奔
赤松伊予守義雅赤松義雅赤松満祐弟。嘉吉元年9月没
山名播磨守満政 ※赤松の誤記赤松満政赤松大河内氏。永享3年1月頃、任播磨守
山名七郎
一番衆 ※二番の誤記一色左京大夫持信一色持信丹後一色氏。永享6年4月没。※実際は国持外様衆か
畠山治部大輔持幸畠山持幸能登畠山庶流 ※実際は国持外様衆か
山名刑部少輔持熙山名持熙但馬山名氏。永享9年7月没。※実際は国持外様衆か
細川下野守持春細川持春細川野州家
細川治部少輔氏久細川氏久細川備中守護家
赤松伊豆守貞村赤松貞村赤松伊豆守家
赤松三郎則繁赤松則繁赤松満祐弟
有馬兵部少輔教実有馬教実赤松有馬氏
赤松広瀬兵庫頭持方赤松持方赤松広瀬氏
伊勢備中守貞国伊勢貞国京都伊勢氏政所執事家。永享3年11月頃、任伊勢守
伊勢勘解由左衛門尉貞知伊勢貞知京都伊勢氏政所執事家

永享三年正月十日 伊勢守貞経亭、三条坊門万里小路江御成。(中略)御車後歩儀上下也。

義教の勘気を蒙り失脚している大舘入道祐善(満信)の名が見えることから永享3年1月10日時点としては架空の名簿の可能性が高い
史料記載注史料記載名実名備考
一番番頭細川淡路入道全了細川淡路左京亮家か
二番番頭桃井治部少輔入道常欽
三番番頭畠山播磨入道祐順畠山満基畠山播磨守家
四番番頭畠山右馬頭持純畠山持純畠山右馬頭家
五番番頭大舘上総介入道祐善大舘満信永享二年正月に義教の勘気を蒙り失脚。

文明十二三年比御相伴衆

宗五大草紙【文明十一年之頃御相伴衆御供衆以下の事】から引用か
家格役職史料記載名実名備考
(御相伴衆)管領 畠山左衛門督政長畠山政長畠山尾州家
(御相伴衆)細川九郎殿 政元細川政元細川京兆家
(御相伴衆)山名左衛門督殿 政豊山名政豊山名但馬守護家
(御相伴衆)一色左京大夫殿 義春一色義春
(御相伴衆)細川兵部少輔殿 勝久 ※誤記細川政之細川阿波守護家
(御相伴衆)赤松兵部少輔殿 則秀 ※誤記赤松政則
在国衆治部大輔殿 義良斯波義良斯波武衛家
在国衆畠山左衛門佐殿 義統畠山義統畠山能登守護家
在国衆京極殿 政経京極政経佐々木京極氏

久下文書『相伴衆・国持外様衆等交名』から引用か。寛正年間の名簿と思われる。
家格役職史料記載名実名備考
国持外様衆山名弾正少弼山名教豊山名但馬守護家
国持外様衆山名相模守山名教之山名伯耆守護家
国持外様衆細川民部少輔 ※大輔の誤記細川持久細川和泉半国守護家
国持外様衆細川刑部少輔細川常有細川和泉半国守護家
国持外様衆山名兵部少輔山名政清山名石見守護家
国持外様衆山名弾正忠山名是豊山名宗全子。備後山城守護
国持外様衆赤松次郎法師赤松政則加賀半国守護
国持外様衆土岐美濃守土岐成頼土岐美濃守護家
国持外様衆佐々木六角佐々木六角氏
国持外様衆武田大膳大夫武田信賢若狭武田氏
国持外様衆佐々木京極中務大輔 ※少輔か京極勝秀佐々木京極氏
国持外様衆富樫介加賀半国守護
外様衆北畠左衛門佐北畠小原氏
外様衆細川中務大輔細川成経細川奥州家
外様衆新田大島左衛門佐新田大島氏
外様衆伊勢仁木左馬助 ※右馬助か仁木教将伊勢仁木氏
外様衆山名伊豆守
外様衆吉見太郎能登吉見氏
外様衆山名宮田五郎山名宮田氏
外様衆丹波仁木兵部少輔 ※大輔か仁木成長丹波仁木氏
外様衆四条上杉中務少輔上杉政藤四条上杉氏
外様衆佐々木京極加賀守京極政宗京極加賀守家
外様衆江見美濃守
外様衆土岐民部大輔
外様衆赤松新蔵人赤松元久赤松七条家
外様衆赤松中務少輔赤松家貞赤松越後守家
外様衆佐々木鞍智鞍智高春佐々木鞍智氏。寛正3年6月出家
外様衆摂津掃部頭摂津之親
外様衆二階堂大夫判官政行 ※忠行の誤記二階堂忠行
外様衆町野加賀守町野淳康問注所町野氏。寛正2年5月没
外様衆波多野越前波多野氏
御供衆細川右馬頭入道細川持賢細川野州家。寛正7年2月没
御供衆細川下野入道細川持春細川野州家
御供衆細川兵部少輔細川勝久細川備中守護家
御供衆細川民部少輔細川教春細川野州家
御供衆畠山宮内大輔畠山教国
御供衆畠山中務少輔畠山政光畠山中務少輔家
御供衆一色兵部少輔義遠一色義遠
御供衆一色五郎政氏一色政氏
御供衆山名宮内少輔山名豊之山名伯耆守護家
御供衆山名七郎山名豊氏山名因幡守護家
御供衆大館兵庫頭大舘教氏大舘兵庫頭家。寛正4年9月没
御供衆細川讃岐九郎細川政之細川阿波守護家子弟
御供衆細川淡路守細川成春細川淡路守護家
御供衆上野民部大輔上野持頼上野民部大輔家
御供衆赤松刑部少輔赤松貞祐赤松伊豆守家
御供衆赤松弥次郎赤松直祐赤松上月氏治部少輔家
御供衆武田治部少輔武田国信若狭武田氏
御供衆冨樫中務大輔富樫泰成
御供衆伊勢守貞親伊勢貞親京都伊勢氏政所執事家
御供衆伊勢備中守貞宗 ※貞藤の誤記伊勢貞藤京都伊勢氏備中守家
御供衆伊勢兵庫助貞藤 ※貞宗の誤記伊勢貞宗京都伊勢氏政所執事家

宗五大草紙【文明十一年之頃御相伴衆御供衆以下の事】から引用か
家格役職史料記載名実名備考
申次大舘刑部少輔 ※大輔の誤記大舘政重大舘刑部大輔家
申次畠山刑部少輔畠山政清畠山刑部少輔家
申次上野民部大輔上野尚長上野民部大輔家
申次伊勢左京亮貞誠伊勢貞誠京都伊勢氏因幡守家
申次伊勢下総守貞牧伊勢貞牧京都伊勢氏下総守家
申次伊勢備後守貞熙伊勢貞熙京都伊勢氏備後守家
走衆後藤佐渡守後藤親綱遠江後藤氏
走衆藤民部中務少輔藤民部政盛
走衆佐竹左京亮 ※竹藤左京亮の誤記
走衆小串下総守
走衆遠山彦太郎
走衆市新左衛門尉
走衆長下総守
走衆広戸刑部丞
走衆角田弾正忠

慈照院義政公東山江御移之已後

宗五大草紙【東山へ御移候て】以下から引用か。京御所様は将軍義尚のこと。御台様は日野富子のこと
家格役職史料記載名実名備考
御供衆大舘刑部大輔大舘政重大舘刑部大輔家
御供衆畠山中務大輔 ※少輔の誤記畠山政近畠山中務少輔家
御供衆伊勢守伊勢貞宗京都伊勢氏政所執事家
御供衆伊勢因幡守貞誠伊勢貞誠京都伊勢氏因幡守家
御部屋衆細川治部少輔政信 ※政誠の誤記細川政誠細川伊豆守家
御部屋衆一色式部少輔義遠 ※政具の誤記一色政具一色式部家
申次大舘刑部大輔大舘政重大舘刑部大輔家
申次畠山中務少輔畠山政近畠山中務少輔家
申次伊勢因幡守貞誠伊勢貞誠京都伊勢氏因幡守家
申次伊勢右京亮貞遠伊勢貞遠京都伊勢氏加賀守家
申次伊勢上野介貞弘伊勢貞弘京都伊勢氏上野介家
走衆後藤佐渡守後藤親綱遠江後藤氏
走衆藤民部中務少輔藤民部政盛
番衆少々
京御所様御相伴衆同前
京御所様申次大舘治部少輔大舘尚氏大舘兵庫頭家
京御所様申次上野民部大輔上野尚長上野民部大輔家
京御所様申次伊勢次郎左衛門尉貞頼伊勢貞頼京都伊勢氏下総守家
京御所様申次伊勢肥前守盛種伊勢盛種備中伊勢氏肥前守家
京御所様申次伊勢七郎左衛門尉貞俊伊勢貞俊
御台様御相伴衆 ※御供衆の誤記大和佐渡守大和邦永備後大和氏佐渡守家
御台様御相伴衆 ※御供衆の誤記千秋中務少輔
御台様御相伴衆 ※御供衆の誤記松田肥前守 ※備前守の誤記松田賢信備前松田氏備前守家
御台様御相伴衆 ※御供衆の誤記安藤薩摩守 ※安東の誤記安東親泰
御台様御相伴衆 ※御供衆の誤記松田六郎左衛門松田信貞備前松田氏上野介家
御台様御相伴衆 ※御供衆の誤記三上兵庫助
御台様御相伴衆 ※御供衆の誤記垪和筑前守垪和元為

出典:国会図書館デジタルコレクション『群書類従 第511【永享以来御番帳】